一発の兵器により当時の広島市の人口35万人(推定)のうち
約14万人が死亡したとされるヒロシマへの原子爆弾の投下
第二次世界大戦(太平洋戦争)末期の昭和20年8月6日午前8時15分
出島だった宇品島は宇品新開の造成にて広大な新開地(埋立地)となっており
山陽鉄道により広島から宇品間にも軍用鉄道が敷設され
宇品も続々と兵員が輸送され
大陸進出の前進基地とみなされる軍事基地となっていた
原爆被災に際し
宇品地区はその大半が爆心地から3km以上隔たった位置にあり
「半壊地区」とされているものの比較的被害が軽微で終った
敗戦後、この広大な宇品地区の軍用地・施設は
民間企業・官庁などに払い下げられて民需に転換されることとなり
そのひとつとして
瞬時に壊滅し廃墟の街となった復興資金の確保
また、民衆の娯楽施設作りのひとつとして
当時、小倉からブームが広まった競輪場施設が広島市により建設され
1952(昭27)年:広島市営による広島競輪が開催される
<昭和43年度・広島市主催・連勝式車券>
平和を願う日本が平和になった今
趣味、レジャーの多様化で売り上げが減少している競輪事業について
存続の真価を問われている
広島県広島市南区宇品海岸
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